「ワンネスってね…」

「ワンネスってね…」

「ワンネスってね…」
著者:エックハルト・トーレ
訳:たけさんとバトーさん

ワンネスってね...

この本はエックハルト・トールさんのベストセラー「ニューアース」からエックハルト・トールさんが直感的にエッセンスをピックアップして再編集された本です。
ワンネスとは何か、私たちとは何なのか、私たちの生きている目的は何なのかが書かれています。
僕とバトーさんによるこの本の翻訳が、多くの方の心の重荷を軽くする機会になることを願っています。

第1章:思考を超えたところにあるもの。自我は幻想です。

思考はあなたのほんの一部分でしかないよ

これから僕が話そうとしていることは学問でも哲学でもないよ。
思考から作られたものにはそれほど力はないからね。
自分の内側には、実は思考よりもずっとずっと深く無限に広がっている世界があってね、思考を超えるとそういう世界に気づけるよ。
そうなると「自分ってなんなんだろう?」と考える必要がなくなる。
もうそれまでの思考による自分の定義づけは意味をなさなくなるんだよ。
あたまの中で絶え間なく聞こえてくる声は、実は自分のものじゃないということに気づいてね。
あたまの中の声が自分じゃないなら、じゃあ自分って何なのかね?
あたまの中の声を見ているのが自分だよ。
思考が起こる前にあるもの、それが自分だよ。
思考と思考との間にあるもの、それが自分。
思考にかき消されてホントの自分に気づけてないだけなんだよね。

不幸はね、状況から生まれるものじゃないんだよ。
状況について思いを巡らせたときに不幸になるんだよ。

今自分が何を考えているか意識を当ててみてね。
そして、状況と思考を切り離してみよう。
状況はいつもそのまま、ありのままで存在しているよ。
でも、思考はそうはさせまいとしてくるよ。
状況に意味づけをするまえに、状況とともにいてみな。

たとえば…
「僕の口座には50セントある」
これはありのままの状況。
「50セントしかない」というのは制限的思考。
その次にとれる行動が大幅に制限される。
思考するとそれに伴った感情を作り出す。
「50セントしかない、もうダメだ」ってね。
僕たちは物事に対して思考や感情を反応させる。
でもね、思考や感情の向こう側にあるものに気づいてね。
そこにあるのがホントの自分だから。

聖書にこういう言葉があるよ。
「なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。」
この世の智恵って何のことだと思う?
思考のことだよ。
思考は、物事に意味づけをして、それ以外の可能性を締め出してしまうんだ。

思考は、状況や出来事を「いいもの、悪いもの」とどんどん仕分けていくよ。
その仕分け作業はどんどん物事を細かくしていく。
例えば…
「勤勉な人はまじめで努力家、立派な人、将来成功する人たち、素晴らしい」
「勤勉に生きてない人は怠け者、人生失敗してもおかしくない人たち、それじゃダメ」ってね。

それって幻想でしかないんだけど、どうしてもそれが本当のように見えてしまうんだよね。
でもね、宇宙というものは個性のある一つなんだよ。
宇宙の中では全てが関連しあっていて、何かが一つだけで存在していることはあり得ない。
そのことに気づくと思考レベルでの「良い、悪い」なんて全くの幻想でしかなくなるんだ。
思考は制限された知覚だよ。
その制限された思考で物事を見てしまうと「良い、悪い」があるのは確かだね。
でもそれは相対的で刹那的で幻想でしかないよ。

物事は偶然ではなく必然だし、関連し合って存在しているよ。
あなたの体を構成している一つ一つの原子はかつては星だった。
必然で今あなたはこうして存在できている。
どうしてあなたは存在しているんだろうね?
理由は無限。
どんなに小さな物事の原因でさえ実質無限なんだよ。
あなたが理解できないレベルでつながりあっているから。

物事の原因を本当に突き止めるためには、宇宙の始まりまでさかのぼらないといけないのかな?
さかのぼっても分からないよ。
だって昔も今も同じ宇宙だからね。
最初から秩序そのもの。
表面的な秩序じゃなくて、ホントの秩序。
このホントの秩序ってね、人間の思考のレベルではとらえることができないものなんだよ。
だから原因がなんだったのかって考えても分からない。
原因や結果は宇宙そのもの。

うっそうとした森の中ってとても混沌としているよね。
ぐちゃぐちゃで何がどうなっているのか分からない状態。
命や死がないまぜになっている。
朽ちていくものがあると思えば、そこから新しい命が芽吹く。
そんな現象がいたるところで起きている。
そこでは良い悪いが存在しない。
全てがまぜこぜ。
でもね、そこには隠された調和が存在する。
ぐちゃぐちゃの中には、神聖さ、より高度な秩序があるんだよ。
しかるべきときにしかるべき場所で完璧な調和が展開されている。
思考を沈めて自分たちの内側の静けさの中にあるとき、このことに気づけるよ。

でもね、思考はね、森の中なんかよりも、人が作り出した立派な公園のほうが心地いいんだよね。
そこには思考で理解できる秩序が存在している。
対して森の中では、思考では全く理解できないぐちゃぐちゃとしか言いようがない秩序が存在している。
そこでは良い悪いという仕分けができなくなる。
思考では理解不能な世界。
でもね、思考を手放せば感じることができるよ。
心静かに、そして意識してみて。
理解しようとしたり説明しようとしないで。
そのときだけ森の神聖さに気づけるんだ。
それに気づくと自分も森と一緒になるよ。
自分の意識と森の意識が同じものだと気づくよ。
そういうふうにして、自然は、僕たちが命そのものだったんだということを思い出させてくれるんだ。

人は、何かを認識すると、即座に意味づけを始めるよ。
レッテルを貼るとか、評価をするとも言ったりするね。
いいか悪いか、好きか嫌いか、無意識にそんな仕分けをしているよ。
それをしているのは自分じゃなくて幻想の自分がしてるんだけどね。
まぁそれが人のしている大部分のこと。
人は思考の中に閉じ込められている。

無意識に行われている意味づけをやめる必要があるよ。
そのためにはまず自分が意味づけをしているってことに気づくこと。
そうすると、起きていることを客観的に見ることができるようになってくるよ。
僕たちは普段絶え間なく意味づけをしてる。
そのことが僕たちの自我に居場所を与えてしまっているんだよね。
意味づけをやめたとき、もしくは意味づけをしているってことに気づくだけでもね、思考と思考の合間にすき間が現れるんだ。
僕たちは普段思考に所有されているけど、その時だけは思考から解放されているんだよ。

ペンでも植物でもなんでもいいから身の回りにあるものをよく見つめてみて。
どこでそれを買ったとか、誰がそれをくれたとか、そういう過去の事柄と結びつけずに見つめてみてね。
リラックスして、それでいて意識は研ぎ澄まして、細かいところまでじっと見てみよう。
思考が沸き起こってきても相手をせずに流してしまおう。
今僕たちが注目しているのは思考ではなくて知覚そのもの。
考えることなしに知覚できてるかい?
結論を出したくなったり、比較したくなったり、こうしてみようとかいう頭の中の声を無視して見ることができてるかい?
2,3分したら周りに視線をずらしてみよう。
他のものがなんか違った印象で見ることができるよ。
じゃあ今度は身の回りの音を聞いてみようか。
同じように音に対して思考をさし挟まないようにね。
水の音、風の音、鳥の鳴き声といった自然の音もあれば、人工的な音も聞こえるよね。
心地よい音もあれば、不快な音もある。
でもね、そこで良い音だとか悪い音だとか仕分けをしないようにね。
音を解釈せず、音そのものを聞いてみてね。

知覚に思考が混じると、どうしても物事が分離してるように思えちゃう。
思考を使わずに物事を知覚すると、より深いところでつながりあっている感覚になるよ。

頭の中の声に耳を澄ませてごらん。
その声は何かに対する不平不満なんじゃないかな。
その声は自我そのものだよ。
自我というのは、条件付けされた思考パターンのこと。
その自我の声が聞こえているときは、その声はホントの自分じゃないということに気づけているよ。
あなたは、自我とは別の存在。
あなたは実は背景。
背景の前でああだこうだ言ってるのが自我。
あなたはその自我の声を自分が言っていると認識している。
このことに気づくと自我から自由になれるよ。

概念でも数学でも無限をとらえることはできないよ。
思考では無限に広がる全体をつかむことはできないんだ。
現実は統合されている全体。
でも思考は全体を認識できないから、現実を細かく細分化してとらえようとするんだよね。
だから、ものごとを根本的にとらえることができなくなる。
ホントは全体がただあるだけなのに、「これが原因であれが結果」みたいな分離が生じるよ。
思考パターンがその人の見かた・考え方を決めていく。
人によって見かた・考え方は千差万別。
つまり、思考では真実をつかめないってこと。
全体だけが真実なんだけど、全体って言葉で表現することもできないし考えることもできない。
思考の制限を外してみるとね、すべては「今」生じている、ということに気づくよ。
過去も未来もすべては「今」起きているよ。
時間は思考の産物だからね。

人類はね、ずっと昔に思考を利用するんじゃなくて思考に所有されるようになったんだ。
そしてホントの命から遠のいた。
世界を言葉やレッテルで覆い隠すことをやめれば、またホントの命に戻っていくことができるよ。
それはとても不思議な感覚。
深い意識がホントの命へあなたを戻してくれる。
物事がホントの顔をのぞかせる。
言葉・思考・分別が起きる前に自分を体感する感覚、これは最も奇跡的な体験。
でも、あなたは、ホントの自分と幻想の自分とをぐちゃぐちゃにしたまま生きている。
そのもつれがほどけるといいね。

思考を捨てつつ、「自分とは何か?」って思考することってできるのかね?

「自分とは何か?」を考えれば考えるほど全体からは遠ざかるよ。

思考で自分を定義するのは自分自身を制限することだからね。
「自分には分からない」ということを完全に認めると、ホントの自分になることができるよ。
これは思考ではできないことなんだ。

幸せを探そうとしないでね。
幸せは探しても見つかるものではないから。
「探し求める」って「幸せ」の反対語。
幸せだと探し求めないでしょ?
いろんな理由をつけて「自分は不幸だ」と言っている。
不幸という感覚は、あなたの幸せな状態を隠してしまう。
もともとあなたは、幸せな存在なんだ。

第2章:「今」の力。自我の最大の敵は今この瞬間。

自我の最大の敵は「今」この瞬間なんだよね。

時間って、過去から未来へずっと続いているもののように思えるよね。
でもね、瞬間ってのはいっぱいあるものじゃなくて、実は一つだけ。
「今」僕たちが体験しているこの一瞬しか存在してないんだよ。
人生は常に「今」。
あなたの人生全体がこの一瞬の中に織り込まれている。
過去や未来って「今」思い出したり「今」予想したりしないと存在できないもの。
過去や未来は思考によって生まれるものだけど、この思考だって「今」がないと存在できない。
そんなわけで、僕たちの人生は「今この瞬間」にしか存在できない。
「今」この瞬間という一つの瞬間しかないのに、どうしていろんな瞬間があるように思えるのか?
それはね、「今」と「起きている事柄」を同じものとしてとらえてるからなんだよ。
「今この瞬間」と「起きていること」って全くの別物なんだよね。
「今」と「起きていること」を同一視すると、「時間」や「自我」という幻想を生み出すよ。

全ての出来事が時間の中で起きているように見えるけどね、全ては「今」の中で起きているんだよ。
とても矛盾に思えるけどね。
周りを見てみれば、いたるところに時間が存在していた痕跡が見つかる。
腐ったリンゴは時間が経ったから腐ったわけだしね。
30年前の写真の顔と「今」鏡に映っている自分の顔を見比べることができるのは、30年前に写真を撮ってもらった過去があるわけであって…
でもね、そういった時間の残した状況証拠は見つけられても、時間そのものを見つけることはできないんだ。
僕たちは決して時間そのものを体験することはできない。
「今」この瞬間しか体験することはできないんだ。
時間は見つからないけど、「今この瞬間」はどこにでも見つけることができるよ。

起きていることは「今」が形を変えて現れている。
「今」が形を変えて出現している世界、このことを受け入れられないと、ホントのあなたから切り離されてしまう。
逆にこのことを受け入れられれば、この世界は「形のない」世界への入り口となるよ。
この世界と神との境界線はなくなっていく。
今起きていることに抵抗するとね、つまり、今起きていることに意味づけをしちゃうとね、その意味づけをした自我の言いなりになるしかなくなっちゃう。
これは幸せなこと、あれは不幸なことってね。
自我お得意の仕分け作業が始まるってわけ。

自我は不足を補おうと必死だよ。
その時その状況によっていろんなものを欲しがる。
「今この瞬間」以外の全てをね。

今どうあるか。
今起きていることをそのまま受け入れる。
出来事に良いとか悪いとか頭で考えない。
あるがまま。
レット イット ビー。
それって人生で何もしなくていいってこと?
そうじゃないよ。
その反対。
「今この瞬間」を受け入れることができるとね、あなたのしていることはとてもパワフルなものになる。
宇宙の助けを借りることができるから。

不安になったりイライラしてる時ってね、ホントの目的を見失っているよ。
どっちでもいい目的で覆われてしまっている。
意識の状態が一番大事。
ほかはみんなどっちでもいいこと。

どうして不安になったりイライラしたりネガティブになったりするんだろうね?
それは「今この瞬間」から目をそらしているからだよ。
なら、どうして目をそらしてしまうんだろう?
他にもっと重要なことがあると思ってるからだよ。
あなたはどうしても一番大事な目的を忘れてしまう。
ちょっとしたミスや誤解によってね。

自我は、「今この瞬間」のことを、①手段・目的である②邪魔なものである③敵である、と考えるよ。

命が「今この瞬間」に形をとっている世界、それに対してこの3つの考え方で反応しちゃうとね、命の世界を自我の世界ととらえちゃうんだよ。
そして自我は自分の立場をより強くする。
自我の反応性はますます強くなる。
一々反応せずにはいられない。
反応中毒。
自分のアイデンティティを強めれば強めるほど自我も強くなる。
命の輝きを放つことができなくなる。

幸せを求めているときは、物事をコントロールしようとしているよ。
あなたは、今のままじゃいけないと考えちゃう。
「今この瞬間」のことを、足りてないものとして認識しちゃうんだよね。
どうにかして「今」の現状を改善しなければならない、こういった状況は避けなければならないってね。
そして、命をつかみ損ねちゃうんだ。
命はね、起きていることや起きていないことに関わらず、常にそこにあるものなんだよ。
「今この瞬間」を受け入れて、時間が存在しないもっと深いところにある命を見つけてみようよ。

一番重要なことは「今この瞬間」と仲良くやっていくことだね。
「今この瞬間」が形となって現れている現状とね。
「今この瞬間」と仲良くできないと、必ずうまく行かなくなるよ。
自我とは、「今この瞬間」との関係性を不全にするもの。
「今この瞬間」とどんな関係でやっていきたいか決められるのは、「今この瞬間」だよ。
あなたは「今この瞬間」と友達になりたい?それとも敵でいたい?
「今この瞬間」って命と切り離せないものだよ。
だから、僕たちはいつも「今この瞬間」とどう関わるのかを選択して生きていると言えるね。
一旦「今この瞬間」と仲良くしたいと決めたなら、次にどうするかはもう決まってる。
現状に対して友好的になってみよう。
「今この瞬間」がどんな姿で現れようと歓迎しちゃう。
するとね、「今この瞬間」から反応が返ってくる。
自分に対して命が友好的になっていく。
周りの人たちが親切になっていく。

意識から時間を取り除くとね、自我も意識から取り除かれるよ。

「今この瞬間」をそのまま受け入れるとね、自我だけでなく時間も消えてなくなるよ。
自我が生き延びるためにはね、過去とか未来といった時間を作り出す必要があるんだ。
だから、自我にとっては、「今この瞬間」は敵でしかないんだよね、あっちゃいけないもの。

時間ってね、命の次元から見てみれば表面的なもの。
命に深く潜っていくには「今この瞬間」が窓口になるよ。

気づきってね、「今この瞬間(present)」の中に隠された力のことだよ。
そんなわけで気づきのことを「存在(presence)」ともいうんだね。
人生の目的は、この世界にその力をもたらすことだよ。

あなたの人生の目的は、あなたのしていることに意識を注ぐこと。
成し遂げたいことを成すというのは第二の目的。
目的を見つけようとしているときっていつも未来に目が向いている。
そうじゃなくて、時間の存在しない「今この瞬間」の中に目的があるんだよ。

第二の目的(外面の目的)は、時間の次元に存在するよ。
一方、第一の目的(内面の目的)は、時間のない今の中にあるよ。
第一の目的がしっかりしていると第二の目的が明確になる。
人生ってね、今どんなステップを踏み出すかで全てが決まるんだ。
この第一歩にすべての意識を向けてね。
どこへ向かうかは実はそれほど重要じゃないんだ。
あてずっぽに踏み出せということではないよ。
この第一歩の質が高いほど、適切な方向へと向かうことができる。
どんな未来がやってくるかは、あなたの第一歩次第。

僕たちは「今この瞬間」を通して、命にアクセスすることができるんだよ。
命は伝統的には神と呼ばれている。
「今この瞬間」に背を向けてしまうと、僕たちの生活から神は姿を消してしまうんだ。
そして、神は、信じる信じないといった概念的な神としてしか存在できなくなる。
信仰は、「今この瞬間」である命をとらえるための一つの考え方と言えるね。

第3章:私って誰?あなたとは「在る」です。

「あなたは誰ですか?」と聞かれてなんと答える?
私は、いつどこどこで生まれて、性別はどっちで、名前は○○で、性格はどんなで、仕事は何をしていて、趣味は何々で…
でも、それはあなたを言い表しきれてないよね?

究極な答えを教えるね。
あなたとは…「存る」です。

いつかは死んでしまう体を自分と同一視するとね、いつかは苦悩に行きつく。
と言っても、肉体を無視しろという意味ではないからね。
健康なら健康を楽しむべきだよ。
健康や美を維持することも楽しめるね。
でも、健康の衰えを感じ始めたら…?
もし自分を肉体と同一視してなければ、そんな苦悩は感じる必要がないよね。
実際は逆でね、体が衰えてきたほうが意識の光は輝きやすくなる。

「自分は意識。肉体とは関係ない」という感覚になろうとするとね、自我はそうはさせまいと頭をもたげるよ。
「形あるもの」と「形のないもの」をごっちゃにさせる。
意識は確かに「形のないもの」だけど、「自分は意識」という思考は「形あるもの」だからね。
これが「自分とは~だ」と思考しているときの実情。
「在る」という感覚を忘れさせてしまう。

エゴはいつも自分を定義させるために「形あるもの」を求めるよ。
その形の中へ自分を押し込み、そしてホントの自分を見失う。
物質や肉体といった外界にある形もそうなんだけど、思考によって生まれる意識的な形のほうが自分自身を見失いやすくさせるよ。

人のことをヒューマン・ビーイングって言うよね。
なんでヒューマン・ビーイングって言うんだと思う?
人生のベテランってね、物事を思い通りにコントロールできる人のことじゃないよ。
「人間(ヒューマン)」と「在るもの(ビーイング)」とのバランスを保てる人のことなんだ。
お母さん、お父さん、夫、妻、若い、年をとっている、自分の役割を果たす、仕事で認めてもらう…こういうのって全部「人間(ヒューマン)」としての側面だね。
その人のいるべき場所があって尊敬されて…でもそれだけじゃホントの関係性は生まれないし心底からは満たされない。
どんなに頑張ったって何を成し遂げたって「人間(ヒューマン)」の力では決して満たすことができないんだ。
対して「在るもの(ビーイング)」。
それって「今この瞬間」に静かに横たわる意識のことなんだけど、それがホントの僕たち。
「人間」は「形あるもの」。
「在るもの」は「形のないもの」。
「人間」と「在るもの」は別個のものではなくて織物の糸のように関係しあっている。

全ての「形あるもの」は崩れ去っていくものと気づくとね、「形あるもの」に対する愛着は少なくなっていくよ。
「形あるもの」と自分とを結びつけないようになっていく。
誤解しないでほしいんだけど、それってこの世界が与えてくれている娯楽を楽しむなと言ってるわけじゃないからね。
禁欲主義になれと言っているわけじゃない。
その逆。
より物事を楽しめるようになるんだ。
一旦すべてのものは脆くて変化しないものはないってことを受け入れちゃうとね、失うという恐怖がなくなって未来への心配がなくなるんだ。
だからより世界を楽しむことができるようになるんだよ。
「形あるもの」を手放すとね、もはや形にとらわれなくなる。
あなたは、高いところから世界を眺められるようになる。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」ってイエスは言ったけど、「こころの貧しい人」ってどんな人だか分かるかい?
こころの中に荷物が何もない人、自分をまったく定義してない人のことだよ。
あなたは物や、物から生まれる概念的な感覚から自分とは何者か定義してしまう。
それじゃあ「天国」ってなんだろね?
「在る」という喜びの世界。
そこでは自分とは何者かなんてどうでもよくなる。
だから、「貧しい人」になれるんだな。

じゃあどうやったら「形ある物」と自分を切り離すことができるのか?
切り離そうとするのはよしといたほうがいいね。
無理だから。
そうじゃなくて、「形あるもの」から自分を作ろうとすることをやめれば、自然と切り離すことができるよ。
「形あるもの」の中から自分を作り出していることにただ気づくこと。
何かを失ってみるか、失う危険があるとき気づきやすくなってるよ。
それで心配になったり慌ててしまうようなら「形あるもの」の中にいたってこと。
「形あるもの」の中にいた自分に気づけるとね、「形あるもの」では自分の全部を言い表せないんだって分かるよ。
「わたしは、『形あるもの』から自分を作り出していたことに気づきました。」
これが意識の変容の始まりだよ。
その気づき自体が「あなた」だから。

空間の計り知れない深みについて沈思するとき。
日の出前のような早朝の静けさに耳を澄ますとき。
僕たちの中にある何かが共鳴してくるよ。
するとね、その先にずっと広がる深い空間は、自分自身だったんだと分かるよ。
その全き静寂さは実はあなた自身。

宇宙は二つの要素で現実を作っているよ。
物質と空間。
みんな両方とも持ってるよ。
バランスがとれた人は現実を作り出しているこの二つの要素の間をうまく行きかいダンスをしているように見えるね。
大抵の人は知覚、思考、感情によって形の側面から自分を定義付けしてしまう。
それってその人の命が半分隠されちゃったようなもんだね。
「形あるもの」から自分を定義付けすると、自我の罠にずっと捕らわれる。

空間があるから物体は存在できるよね?
静寂があるから音は存在できるよね?
それと同じ感じで、あなたは「形のない」生き生きとした次元がないと存在できないんだよ。
その「形のない」次元があなたのエッセンス。
「神」という言葉は誤用されやすいからあまり使わないほうがいいよ。
僕は「神」よりも「在る(ビーイング)」のほうをお勧めするね。
「在る」は存在に先立つもの。
存在とは、形があって、中身があって、生じてくるもの。
「在るもの」はあるがままの背景。
存在は、その背景の前にあるもの。

人は日々起きていることに振り回され、生活を良いものにしようと必死。
これって人類みんなで病気にかかってるようなものだね。
そんなことよりも大事な基本を忘れてしまっている。
そんなことにエネルギーを浪費してしまって永遠の世界を忘れてしまった。
前にも言ったけど時間は存在しないからね。
永遠は存在そのもの。
永遠は生きている。
永遠は「今」この現実。
永遠はあなたが帰るべき本来の場所だよ。

美しい花を見ているときってね、ほんの一瞬かもしれないけど僕たちの本質に気づけているときだよ。
花の美しさってね、もともとあなたが持っている性質なんだよ。
それがあなたの存在の本質。
喜びや愛っていうのは、そんなあなたの性質から生まれてくるものだよ。
花ってね、究極的には「形のない」あなたの存在を、花という形であなたに教えてくれている。
「形あるもの」の中で、花は最も神聖なものだと思うね。
花は、優雅で儚くて力強い。
花はこの世界と「形のない」世界を結ぶ橋のような存在だね。
「形のない」世界からのメッセンジャーとも言える。
花は、優雅で心地よい香りだけでなく、魂の国の香りも届けてくれるんだ。

意識を研ぎ澄まして何の意味づけもせずに花を見るときってね、花は「形のない」世界への入り口となる。
その入り口は狭いかもしれないけど、スピリチュアルな次元へと開かれている。

自分を役割にあてはめないとき、自分のしてることから自我は消失している。
そこでは、自分を守ったり自分を強く見せる必要性がなくなるからね、第2の人生の目的の存在価値がなくなる。
結果として、その状況に全部意識を向けることができるようになるから、自分のしてることがずっと意義のあるものになるんだよね。
その状況と一つになることができている。
だから、他の誰かになろうとしないでね。
自分自身になれているときが、一番パワフルで、効率的なんだよ。

「じゃあどうやったら自分自身になれるの?」と思うよね。
その質問自体が間違ってるんだな。
その質問って、「自分自身になるためには何かをしないといけない」ってことだもんね。
もうすでに自分自身なんだから「どうやったら?」という質問はおかしいんだよ。
「でも自分が誰だかなんて言える人は少ないんじゃないんですか?自分は何者なのか、自分の役割はなんなのか、何をなすために生まれてきたのか、それを知りたいんです」って言うかもしれないね。
「自分が何者なのか分からない」
そのことに完全にくつろぐことができたとき、そのときが自分自身になれたときだよ。
自分自身は、言葉で定義できるものではなくて、純粋な可能性の中に存在するものなんだよ。
人間であること(ヒューマン)のまえに、すでに自分自身(ビーイング)であることを思い出してね。

自分に対してもそうだけど、他人に対しても定義づけするのはやめてね。
あなたはもともと「在るもの」。
あなたは命へと帰っていくよ。
あと、他人が自分をどう定義づけているかを気にしないでね。
他人が自分を定義づけしているときって、他人が自分自身を制限してるだけ。
だから、それは他人の中の問題。
他人と関わるときはいつでも、仕事や役割としてではなく、「今この瞬間」の意識で関わるようにね。

「今」とは短命な個人なんかよりもずっとパワフルなもの。
「形あるもの」全てはね、自分の中にあるその「今」を通じてのみ存在できるんだよ。
だから、その「形あるもの」に色々文句を言うのをやめて、「今」として受け入れてみよう。
世界中のどんなものよりもずっと深いところにある自分に気づくよ。

思考や感覚、体験をしているとき、意識は「形あるもの」に変化する。
その「形あるもの」から、また新しい思考や感覚、体験が生まれる。
仏教の人たちはこのサイクルを終わらせるために修行をしている。
これを終わらせられるのは、「今この瞬間」にかかっている。
それが「今の力」。
「今の力」にしかできないこと。
「今」生じている「形あるもの」を完全に受け入れることを通してのみ、「今」という宇宙と整合性を持つことができるんだよ。
自分という宇宙に戻っていく。
「形あるもの」ではなく自分の宇宙「形のないもの」と仲良くなるとね、ホントの真実が見れるようになる。
そして人生に完全なバランスを持たせることができるんだよ。

「在ること」の喜び、それが唯一ホントの幸福のこと。
それは、所有・達成・個人的なものといった、生じてくる一切の出来事「形あるもの」では感じることのできないものなんだよ。
幸福はやってくるものではないからね。
幸福はね、僕たちの中にある「形のない」意識の次元から発散されてるものなんだよ。
幸福はあなたの中にある。
あなたはもともと幸福な存在ってこと。

訳注:
「形あるもの」は、物質もそうなんですが、思考から生まれるもの全てのことを指しています。
家とか土地とか車とか、言葉通り形のある物質的なものもそうですが、地位や名声、価値観、常識、自分の役割、仕事、自分とはどんな人なのかといった思考から生まれる形なきものも「形あるもの」に含まれます。
対して、「形のないもの」とは思考の介在しない、ホントに「在る」純粋な存在のことです。
それ以外は「形あるもの」です。
形のない世界(フォームレス)はホントに在る世界(空)。
形のある世界(フォーム)はホントにはない世界、幻想(色)とも言えます。

第4章:目覚め。目覚めようとしないでください。

「目覚め」という言葉のホントの意味を知るには、目覚めてみないと理解できることではないよ。

思考の中で迷ってしまっている状態から目覚めるとね、自分自身が思考の向こう側にある存在、意識だったんだということに気づくよ。
そして、それまで自分自身を操作し人生を支配していた思考は、完全自律型自動運転をやめてくれるんだ。
気づきは、思考と取って代わる。
思考は、あなたの人生責任者であることをやめ、気づきに仕えるものとなるんだよ。
気づきは、宇宙の知性とつながっている意識だよ。
宇宙の知性ってのは、言い換えてみれば、思考の存在しない意識、「今」のことなんだけどね。

「気づき」は宇宙。
宇宙は意識そのもの。
思考は宇宙があって存在できる。

あなたの人生の目的は「目覚め」ること。
とてもシンプル。
それを地球上の人々と分かち合うこと。
「目覚め」ってのは人類の目的だからね。
宇宙や宇宙の現れである世界、その全体性の中で、僕たちの人生の目的はこの「目覚め」以外にない。
他の目的はね、絶え間なく変わりゆくもの。
人によってホントに様々。
「目覚める」という人生の目的に合わせていくとね、次の目的である成し遂げたいことも叶いやすくなるんだよ。
それがホントの成功のこと。

人類は苦しみを乗り越えていける生き物。
でも、それを自我でやろうとしてもうまくいかないよ。
「なんでこんな目に会わなきゃいけないの?」は自我の代表的な思考パターン。
この思考自体が、苦しみをベースに生まれているものだからね。
苦悩の炎にはね、とても崇高な役割がある。
意識を進化させて(目覚め)、自我を焼き尽くす役割。
十字架に張り付けられたイエスさまはそれを成しえた人だよ。
僕たちの生きている目的もそこにあるよ。
苦悩と戦っている限り自我はどんどん大きくなるから、自我をもやすための苦悩という炎もますます大きくなる。
その道のりは険しいものになるよ。
対してその苦悩を受け入れちゃうとね、つまり、この苦しい現実を作り出しているのは自分の意識なんだということを認めちゃうとね、その苦しい現実を乗り切っちゃうプロセスは早く進むんだ。
自分自身の苦悩もそうだし、親や子供たちが抱える他人の苦悩も受け入れられるようになる。
苦悩の真っただ中にあるとき、そこにはすでに変容が始まっているよ。
苦悩の炎は意識の光に変わっていく。

自我は「なんでこんな目に会わなきゃいけないの?」って言うけどね、その思考は自分自身をさらに苦しめてしまう。
そうやって自我は逆説的に真実をゆがめさせる。
僕たちがホントにしなきゃいけないことは、苦悩を乗り越えることではなく、苦悩に「yes」ということ。

自我によるドラマを展開している地球人の目的はホントにいろいろ。
これじゃあ人類の共通の目的を持つことはできない。
自我はどんどん苦悩を作り出していく。
地球上に苦悩は満ち溢れていく。
やがて自我は苦悩によって自滅する。
苦悩は、自我から生まれる炎であり、その炎によって自我自身が焼き払われるんだ。

「自我から解放されたい!」と言ってるときって、誰がそれを言ってるのかね?
自我だよ。
自我から自由になるためのに修行とかそんな大それたことをする必要はないよ。
目覚めるために必要な作業、それはね、「今」生じてくる思考や感情にただ気づくこと。
それだけ。
目覚めようとしちゃダメだよ。
ただ思考や感情を眺めるだけ。
思考から気づきへのシフト。
いちばん頭のいい人よりも知的な存在が、あなたの人生を導き始めるよ。

どうかいい人になろうとしないでね。
なろうとしてもなれないから。
というのはね、自分の中にもともとある善い性質、それを見つけるとね、それが表に現れていい人になれるんだよ。
でも、それには条件があってね、自分たちの意識のベースが変わらないと、その善い性質は表に出てこれないんだ。

禅では、「真実を求めるな。意見を尊ぶのをやめろ。」と言うけど、それはどういう意味だと思う?
「思考による分別を捨てろ」ってことだよ。
思考を捨てると、思考の奥にあるホントの自分が現れるんだね。

思考したり会話したり行動したりさせる自我。
その自我によって気づけなくなっているホントの自分がいる。
それに気づくこと。
これが「目覚め」の重要なところ。
自分では気づけなくなっている自分に気づくと、ホントの自分が浮上してくる。
それが「目覚め」。
気づけていない自分に気づかせてくれるのがホントの自分。
自我と戦ったって勝てないよ。
暗闇と戦ったって勝てないようにね。
意識の光だけがあればいいんだよ。
あなたがその光だよ。

ほとんどの人は、物事に執着しちゃっているよね。
強迫観念をもって執着している。
執着することに夢中になっている。
自我が探し求めたり意味付けをしている物事。
それらはみんな「在る」にはなれないし、「在る」を感じることはできない。
あなたは物事に意味付けをして大事に抱えこんでいる。
正確に言うと、あなたが意味付けしてるんじゃないんだよね。
「私は」という思考によって自分が意味付けされちゃってるんだよ。
「私は」は自我なんだということを覚えておいてね。
完全に失うことを受け入れちゃうとね、自我の幻想が解けてホントの自分になれる。
意識そのものであるホントの自分が現れるんだよ。

多くの人は死ぬ間際になるまでこのことに気づけない。
「形あるもの」全てが取り払われてやっと、どんな物事もホントの自分とは一切関係ないということに気づけるんだ。
死が近くなるとね、所有という概念は全く意味をなさないことが明らかになる。
そして、死の瞬間、こんなことにも気づくんだ。
「もっと完璧な自分、それを人生をかけて見つけようとしていた、でも本当に探していたものは『在る』だった、それはずっとそこにあるものだった、でも物事に意味付けをしてきた人生によって隠されてしまった、隠していた当事者は自我だった…」ってね。

物事に対してしつこくネガティブな意味付けをしてしまっている「思考」に突然気づく人もいるけどね。
突然の気づき。
そう考えたことに気づいたというよりも「思考」そのものに対する気づき。

歳をとるとか、病気とか、障害とか、無くすこととか、そういった個人的な悲劇が「形あるもの」。
ホントの自分に戻ろうとする動きって、そういった「形あるもの」を弱めるよ。
「形あるもの」から生まれる意味付けの世界はもう終了。
その動きはとても大きなスピリチュアル的目覚めとなる。

新しい地球ではね、お年を召した方にとっては、意識という花を咲かせるとき。
状況としては失うものばかりかもしれないけど、ホントの目的に目覚めるというちょっと遅めの帰るべき場所となる。
若い人たちにとっては、目覚めを加速させる活躍の場となるよ。

気づきが増えてくるとね、「目覚めるためにはつらい思いをしなければならない」なんてわざわざ思う必要がなくなるよ。
地球上に新しい意識が現れ始めると、目覚めようと必死になる必要はなくなる。
たとえ成長と発展という「形あるもの」に意識が向いてても、自然と目覚めの道のりに入ることができる。
「形あるもの」への原動力は自我ではなくなっているから。
静寂さ、「在る」、「形あるもの」の溶解という世界のパワフルさ。
本来の自分へ帰る動きのパワフルさ。
それと同じくらい思考・話すこと・活動・創造といった「形あるもの」への動きはパワフルなものになる。
その動きが、この世界にスピリチュアルな次元をもたらすようになるよ。

愛するというのは、他人の中に自分を認めること。
そのとき、他人と自分との違いは幻想だと気づく。
他人と「形あるもの」の世界とを関連づけてしまうことで生じる幻想にね。

相手も同じような認識を持つとね、お互いを通して「在る」という次元をもっと完全にこの世界にもたらすことができる。
それが愛。
その愛が世界を救う。

第5章:内なる宇宙。あなたは舞台背景。思考は登場人物。

内なる宇宙、宇宙意識は、「形のないもの」、条件づけられていないもの、本来の状態にあるもの、その中にあるんだ。
その意識は、普段は思考に呑まれちゃってるから見つけることはできないよ。

大抵の人たちの人生はモノであふれかえっているよね。
それこそ物質的なもの、すべきこと、考えるべきことでいっぱいになっている。
こういった人生って人類の歴史そのものだね。
ウィンストン・チャーチルが言ったように、どちらでもいいことの繰り返し。
あなたの頭の中は、次から次へと湧き出てくるどちらでもいいモノでいっぱい。
これはモノ対象。
モノ意識の次元だよ。
多くの人がその次元こそ現実だと思っている。
酔っぱらって現実が見えなくなってる。
手を伸ばしてもモノを上手くつかめない状態。
見えてるようでホントは見えていないんだ。
だからあなたの人生はバランスを保てなくなる。
モノ意識は宇宙意識でバランスを取り直す必要がある。
酔いがさめてホントの現実に戻ってくることができる。
人類の進化の次のステージへ進むには宇宙意識が鍵となるよ。

知覚、思考、感情といったものは、モノ意識。
それらよりももっと下に横たわっている普段は気づけない次元の意識が宇宙意識。
気づきが、あなたはモノ意識ではなく、宇宙意識であることを教えてくれる。
表舞台で物事が起きているときにその背景に横たわる静寂さ。
それが宇宙意識。
この次元は誰しも持っているものなんだけどね。
ほとんどの人がその背景に全く気づけていない。
だから僕は時々指摘するんだ、「自分自身の『今』を感じていますか?」ってね。

宇宙意識は、自我からの自由だけでなく、「形あるもの」で成り立つ物質主義的なこの世界からの自由も意味してるよ。
宇宙意識だけが、物質主義の世界を本当の意味ある世界へ上昇させることができるんだ。

「形あるもの」に全く自分を同化させていないとき、自分が自分である意識は「形あるもの」という檻から解放される。
この自由は宇宙意識から生まれるものだよ。
宇宙意識は、自分の深いところにある静寂で完全な調和の中から生まれてくる。
苦痛としか言いようのない状況にさえ、宇宙意識は存在している。
宇宙意識は、僕たちの思考と思考の合間に存在しているよ。
この世界のものではない調和が宇宙意識から発散されている。
この世界は「形あるもの」の世界。
調和は宇宙意識の世界のもの。
宇宙意識は神による調和の世界。

そうなればね、あなたは物事に重要さや意義のようなものを付けずに、そのまま物事を味わうことができるようになるよ。
「私を満たせ、私を幸せにしろ、私の安全を確保せよ、私を誰だと思っているんだ」とか世の中にわけの分からん要求をしたりせず、良い結果を出そうと必死になることなく、創造のダンスに参加することができるようなにる。
世の中はそんな要求に答えてくれはしないよ。
てかその必要はない。
そんな期待を持たなくなったとき、自ら作り出していた苦悩は終わりを告げるから。
そんな苦悩は全部「形あるもの」が作り出す幻想。
内なる宇宙の次元に気づけてないだけ。
今その次元にあるとき、自分自身を失わずに、物事に対して愛着を持たずに、つまり、世の中に執着することなく、物事、経験、喜びをそのまま味わうことができるようになる。

内なる宇宙の次元にないとき、世の中の物事はとても重要で深刻で重たく感じる。
ホントは物事にそんな意味はないんだけどね。
「形ないもの」の視点から世の中を見ていない時、世界はとても怖くて絶望的なものとなる。
旧約聖書の予言者が「すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。 」と言ってるようにね。

思考の絶え間ない流れに隙間を作って内なる宇宙に気づいてみて。
そういった隙間がないとあなたの思考は似たような独創性のないことをずっと考え続けてしまう。
その隙間の時間を長くしようとか考える必要はないよ。
2,3秒でいい。
努力せずとも自然と長くなってくから。
時間の長さよりも、そうする機会を持つ回数を増やすことのほうが大事だね。
あなたの日課となっている絶え間ない思考を宇宙の中へ逃がしてあげる機会をね。

呼吸に意識を向けてみて。
呼吸がどれだけ思考から注意をそらし、隙間を作ってくれることか。

呼吸の感覚に気づいてみて。
体を出たり入ったりする空気の動きを感じてみて。
息を吸ったり吐いたりするたびに、胸やおなかがどのように膨らんだり戻ったりするのか意識を向けてみて。
一つの呼吸に意識してみると絶え間なく湧き上がる思考に隙間を作ることができるよ。
一つの呼吸に意識してみること。
それを1日の中で繰り返しやってみること。
これ、あなたの生活に空間を作るには素晴らしい方法。
呼吸に意識を向けた瞑想を長くするよりもずっと効果的。
気づくには一つの呼吸で十分なんだよ。
長く瞑想しても、瞑想をやったという記憶が残るだけ。
気づきへの期待にしかならない。
それって思考。
呼吸はするものではなくて、起きていることを見つめるためのもの。
呼吸はそれ自体おきている。
体の中の知性がそれをしている。
あなたがするのは、それをただ見つめること。
そこには努力は一切なし。
あと、息を吐ききった後、呼吸の動きが止まる少しの間に意識を向けるのもいいね。

「こんな事が起きてしまった」「あの人にこんなことを言われた」「こんなのあり得ない」って動揺しているときって、その状況があなたを動揺させているわけじゃないんだよ。
宇宙だけが与えてくれるホントの見方を忘れてるから動揺してしまうんだ。
時間の存在しないそれ自体が意識である内なる宇宙の存在を忘れて、モノ意識にどっぷりつかっているから。

内なる宇宙と、「ぼーっとしている」のとでは全然意味が違うからね。
両方とも思考が存在していないという意味では同じと言える。
でも根本的に異なるもの。
内なる宇宙は人類の意識の進化に通じる次のステップ。
ぼーっとしてるのは思考の世界と変わらない。
「あぁぼーっとしてた…」
そして、いつもの夢のような現実へ戻っていく。

内なる宇宙を見つけられなくするのは、経験への埋没。
「私は在る」というホントの自分を見つけられなくする。
経験と自分を同化しちゃって自己を見失っている。
あなたはいろんな思考や感情や経験に騙され、夢の中にいるような状態になっている。
人類は何千年ものあいだ夢の中。

内なる宇宙の気配を感じたら、それを探し始めちゃうかもしれない。
でもモノを探したり体験を求めたりする感覚で見つけようとしても、内なる宇宙は見つけられないよ。
スピリチュアル的な気づきや覚醒を目指している人たちにとって、このことはいつもジレンマとなるよね。
だから神様は言ったんだ。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ってね。

不満、心配、不安、憂鬱、絶望とかネガティブな感情いろいろ。
そんな感情に邪魔されてないとき…
雨や風の音といったとてもシンプルな物音を聞いているとき…
空を横切るきれいな雲を見ているとき…
楽しいことや刺激を求めることなく寂しさも感じることなくただ一人でいるとき…
誰かからの見返りを求めることなく誰かにやさしくしているとき…
そのときって内なる宇宙への扉が開いているよ。
束の間かもしれないけど、人間の脳が作り出す絶え間ない思考から内なる宇宙へシフトしている。
そのとき、とても微かかもしれないけど、調和という感覚が生まれている。
微かに気づくこともあれば、強烈に感じることもある。
その感覚のことを、昔のインドの賢者はアナンダ(在ることの至福)と呼んだけどね。
「形あるもの」にだけずっと意識しているから、だいたいは間接的にしか気づけないもの。
美しいものを見ること、シンプルなことを喜ぶこと、友達と楽しむこと、ほかの人にやさしくすること、といったことは共通の能力。
そういった共通の能力が間接的に気づかせてくれている。
この共通の能力は、満足、調和、命といった目には見えない背景にあるもの。
その背景があるからこそいろいろなことを経験できるんだけどね。

生活の中にある美しいもの、やさしさ、シンプルな物の中に潜む善いもの。
そういうものに気づくときはいつでも、自分の内面の舞台を探してみるといいよ。
ただし、何かを探している、という態度で探さないで。
その何かをピン止めすることはできないから。
「よし、つかんだぞ!」とか言えないもの。
なんとか定義してみたり、思考でつかむことのできないもの。
雲のない空のようなものだからね。
宇宙だからつかめない。
「在ること」の静寂さ、無限さは言葉ではつかめないよ。
言葉はせいぜい指し示すだけ。
直接内的宇宙を感じれると、それはどんどん深くなるよ。
耳でも目でも肌でも何かシンプルな物を感じているとき、
だれかへ優しくしているとき、
そんなときに、内面の舞台となる背景、おおもとである内なる宇宙を感じてみて。

内なる宇宙を見つける方法はもう一つあるよ。
「在る意識」の意識になることだよ。
何の意味づけをせずに「私は在る」と言ってみてごらん。
「私は在る」の次に続く静寂さに気づいてみて。
今を感じてみて。
若いとか老いてるとか、お金持ちとか貧乏とか、良いとか悪いとか、そのほかどんな意味づけをしない自分自身。
それは丸裸の自分。

第6章:人生の目的。人生には2つの目的があります。

人生には内側の目的と外側の目的があるよ。
内側の目的は「在る」ということ。
これが一番の目的。
外側の目的は「する」ということ。
これは2番目の目的。

人生の一番の目的、人生のホントの目的は、外側のレベルでは絶対に見つけることができない。
人生のホントの目的は「在る」ことであって「する」ことではないから。
ちなみに「在る」というのはあなたの意識の状態のこと。

あなたは、「現実を変えていくには行動しなければならない」と考えちゃう。
行動も必要なんだけど、それは主役ではない。
行動は、2番目の要素。
現実を作り上げる主役は意識。
どんなに活発に活動したところで、どんなに努力をしたところで、うまくいかない。
あなたの意識が世界を作ってるから。
内側のレベルで変わらないと、どんな努力も同じこと。
何かを作り出しているように見えるけど、根本的に同じものをひたすら作ってるだけ。
ずっとね。
自我を外の世界に作り出しているだけなんだ。

一旦、気づきや今を体験するとね、そのことが直接分かっちゃうよ。
それはもう思考でどうこう言えるものじゃない。
そして、無意味な思考にふけるよりも、「今」に対する意識の持ち方を選ぶことができるようになる。
「今」を自分の人生に呼び込むことができる。
「今」というのは内なる意識のことね。
目覚めの喜びが返ってくるよ。
何もなかったかのように感じるかもしれないけど、やりつづけるといいよ。
気づきがやってくる感じがしてくる。
その重要性が見えてくる。
それは自分がすることじゃなくて、内なる意識、「今」ができるようにしてくれることなんだけどね。
浮上してくる意識に自分を開くこと。
意識の光を世界に照らすこと。
すると、あなたの人生の目的がやってくるよ。

目覚めた状態は、2番目の人生の目的と1番目の人生の目的との間に整合性を持たせることができる。
もう一度言っとくと、「する」ことが2番目の目的、「在る」ことが1番目の目的。
目覚めた状態で活動をするとね、外側の宇宙の目的と一つになれる。
宇宙の意識があなたを通して世界に流れていくんだ。
宇宙の意識があなたの思考に流れ込み、周りの人たちを刺激する。
宇宙の意識がしていることに流れ込む。
そして導かれ「する」ことに力を与えるんだ。

目を覚まして何かをするとね、受け入れられるようになるし、楽しめるようになるし、熱意をもってすることができる。
その感覚にはそれぞれ振動があってね、ある周波数を持っているよ。
あなたが何かをしているときは、こういった感覚を常にもっているか確認していく必要があるね。
あなたがしていること何にでも対してね。
簡単なことでも難しい作業でも。
その感覚にいないと視野が狭くなって、自分自身や他人に対して苦しみを作り始めるよ。

何かをしていても楽しめていないとき、そのしなくちゃいけないことを受け入れてみてね。
受け入れるというのは、しなくちゃいけないことが起きている「今」を受け入れるということ。
この状況、この瞬間があなたにするべきことを用意してくれている。
その「今」を喜んで受け入れてみよう。

自分のしていることが受け入れられないとき、楽しくないときは…
やめてみな。
そうじゃないと、「今」起きていることに向き合うことができないよ。
「今」おきていることに向き合うことが、あなたが責任をとれる唯一のこと。
「今」起きているのは、ホントの物事、あなたの意識ということ。
自分の在り方に責任を持てないのなら、自分の人生にも責任を持てなくなるよ。

今までは、ヒトの活動の原動力は欲望だったけど、新しい地球ではね、楽しみが原動力となるよ。
創造性の裏には大きな力が働いていてね、自我はその大きな力と自分とを別個のものだと思わせてしまう。
分離は妄想。
その妄想を解いてくれるのが楽しみ。
楽しみを通して、創造性の背後にある宇宙の力とつながることができる。

もし、今していることを楽しめているのなら、その活動は命の中から出てくるものとなる。
楽しめることを待っていたら命から創造性は生まれない。
今楽しめるかどうかだよ。

自分の人生の焦点を「今」に合わせることができればね、「今」していることを楽しむ能力をぐっと上げることができる。
人生の質はこの能力で決まるよ。

楽しみはしていることからはやってこない。
楽しみは、自分自身の深いところから来るんだよ。
楽しみは自分を通して自分のしていることに流れ込む。
そして、世界に楽しみをもたらす。

「今」に完全にあればどんなことでも楽しむことができるよ。
結果を望まない活動であればなんでもね。
結果を出すのが楽しくて活動しているならそれはホントの楽しみではないよ。
そうじゃなくて、もっと深いところにある生き生きとした感覚が自分のしていることに流れ込むんだよ。
その生き生きとした感覚は自分自身と一つのもの。
命。
創造の裏に横たわる大きな力。
そんな感じで何かを楽しんでいるとき、ダイナミックなレベル、「在る」楽しみを体験できていると言えるね。
だから、楽しんでやってるならどんなものでも、命と自分とをつなげてくれるんだ。

自分の人生に創造性を持たせる実践を紹介するね。
毎日頻回にしているルーチン的な事柄をリストアップしてみます。
興味がなくて退屈でイライラさせるストレスでしかない事柄を挙げてみます。
敵意や憎しみまで感じるような事柄はちょっと除外しといてね。
そういった毎日のルーチン的でストレスな事柄は、受け入れてしまうか、やめてしまったほうがいい事柄と言えます。
ストレスな事柄には、毎日の通勤、食材の買い出し、家事洗濯など、日常生活のだいたいがリストアップされちゃうかもね。
そういったストレスフルな日常の作業を、気づきのための乗り物に変えちゃってください。
今している作業を「今」という乗り物に変えちゃってください。
意識を研ぎ澄まして、生きた静寂を感じて、その作業の背後にあるものに気づいてください。
高められた意識でことに臨むとね、ストレスなことでも楽しくできていることに気づくよ。
もっと言うとね、楽しくできていることってホントはストレスな状態を楽しんでいるわけじゃないんだよね。
内なる宇宙の次元の意識を楽しんでいる。
その意識がストレスなことを楽しくさせてくれるんだよ。
これは、自分のしていることの中にある「在る」の楽しみを見つけた、ということ。
もし自分の人生には価値がないと感じたり、ストレスまみれ、嫌なことばかりだと感じているようなら、「在る」の次元に自分がまだいないということになるね。
自分がしていることの中の意識になること。
それがまだ人生の目的になってないということだよ。

自分のしていることが楽しいとき、ヴィジョンとかゴールのような方向性を与えてくれる感覚があるよ。
それが熱意。
自分のしていることに楽しみを感じるとき、エネルギーの振動数は変わる。
モノを生み出すときにはストレスが生じるものだけど、それが喜びと一緒になると、熱意になってくよ。
熱意でモノを生み出しているときって、その人からはものすごいエネルギーを感じるでしょ。
そのときって的に向かって飛んでいく矢のような感じ。
そして、その行程を楽しんでいる。

傍から見れば、その人はストレスを感じているように見えるかもしれない。
でも、熱意とストレスは無縁のもの。
したいことをする、よりも、目標を達成したいという気持ちを優先させるとストレスを感じるよ。
楽しむことと、モノを生み出すときのストレスのバランスが大事だね。
バランスを崩せば大概ストレスのほうが勝っちゃうよ。
ストレスは、いつも自分のすることの質も効率も下げてしまうよね。
ストレスはネガティブな感情と強い関係性がある。
心配とか怒りとかいった感情と。
ストレスは身体にとっても毒となるしね。

ストレスと違って、熱意は高い振動数を持っていて、宇宙の創造性と共振している。
それで、ラルフ・ウォルド・エマーソンは「熱意なしにはどんな偉大なことも成しえない」と言ったんだ。

熱意は自分がどこへ向かっているか知っている。
同時に、「今この瞬間」という深い一点にいる。
命の源であり、楽しみであり、力である、「今この瞬間」。
熱意には欠けているものがないから、熱意は何も望まない。
熱意は命とともにある同じものだよ。
熱意でなすことがどんなにダイナミックでも、自分を見失うことはない。
静かでいて激しい命の宇宙であり続ける。
車輪の軸のように活動の中心にいる。
調和の核になっている。
それは、命の宇宙。
全ての源。

あなたは、人類の意識が進化していく重要な時代を生きているよ。
地球上だけでなく、おそらく同時に他の銀河でも、もっと向こうの宇宙でも、意識は「形あるもの」の夢から目を醒ましつつあるよ。
ほとんどの「形あるもの」(この世界)は溶けてなくなるけど、全ての「形あるもの」がなくなるという意味ではないからね。
意識はその状態を保ちながら「形あるもの」を創り出し始めている。
意識は「形あるもの」を創り出しているときも、体験しているときも、意識の状態のままでいることができている。
意識はどうして「形あるもの」を創り出したり体験したりする必要があるのか?
それを楽しむためだよ。
どうやって楽しむのか?
覚醒した人類を通じて楽しむ。
目覚めたままで何かをすることができるようになった人類によってね。

新しい人類がこの地球上に現れている。
今、現れている。
それはあなたです!

第7章:今になるということ。

思考によって物事や状況に命を与え続けるのはやめよう。
それは思考が監督する映画みたいなもの。
自然のままで時間の存在しない「今」にいつも意識を向けよう。
するとあなたは学ぶことができる。
あなたは「今」にないとき思考や感情に囚われている。
「今」だけからしかホントの自分は生まれてこない。
それ以外の自分は自分じゃないよ。

「今」にさせてくれるのは昨日でも明日でもないよ。
「今」だけしか「今」にさせてくれない。
その「今」だけが自我から自由にしてくれる。
「今」だけが時間を無いものにしてくれる。
「今」だけが意識の変容をもたらしてくれるんだよ。

注意してみて。
気づきがあると、それまでの古い考え方、経験によって作り上げた価値観からの声が頭の中で聞こえるよ。
どんな思考ももう信じなくていい。
それはもう古いもの。
気づきとは「今」のこと。
「今」だけが思考によって作り上げられた自分を溶かすことができるんだ。

禅の悟りとは「今」のことだよ。
頭の中の声からちょっと出てみること。
思考過程とか思考から生まれる感情から抜け出てみること。
「今」は内なる宇宙からやってくるもの。
内なる宇宙は騒がしい思考や感情が生まれる前にあるもの。

数千年も続いている人類の悲劇を終わらせるためには、あらゆる「今」という瞬間に責任をもって生きることが大事。
それが「今」を生きるってこと。
「今自分はネガティブな感情を持っていないか?」と自分に聞くこと。
そして、感情だけでなく思考に意識を向けること。
「形あるもの」から生まれるしょぼい不幸感に気づくこと。
不安とか、心配とか、やってらんねぇみたいな感覚にね。
思考は強引に原因を引っ張ってきて自分を納得させる(ように見させている)。
でもネガティブにさせている原因は張本人の思考。
自分の中にネガティブな感情があることに気づけた瞬間ってね、それは失敗じゃない、うまくやれてるよ。
「今」にいられないと、自分を合理化する作業が永遠に続く。
合理化させているのは自我だからね。

気づけると、思考・感情・反応との同一化を止めることができる。
思考・感情・反応を否定するのとは違うからね。
思考・感情・反応を認めた瞬間に同一化は自然と止まる。
ホントの自分がシフトを体験する。
思考・感情・反応以前の自分に戻るというシフト。
その気づきの中で、「今」という意識は、思考や感情を客観視できるようになる。

気づきを通して思考と感情は自分と分離する。
思考と感情は自分とは別個のものだと気づくよ。
そうなるともう自分の中に思考や感情はなくなる。
思考や感情はただ単に人間の思考であり人間の感情なだけ。
人生は思考や感情が作り上げた物語でしかないんだけど、そんな人生は重要性を持たなくなる。
そんな人生はもう意識の表舞台を占領しなくなる。
思考や感情が自分の基盤になることはもうないから。
あなたは「今」という光。

ネガティブは知的なものではない。
それはいつも自我から来るもの。
ネガティブなときには、ネガティブを欲する自分がいるよ。
楽しみを見出すためにネガティブでいる。
ネガティブでいれば望むものが手に入ると思っている。
誰が望んでネガティブになりたいなんて思う?
自分や他人をみじめにし病気にさせちゃうネガティブを誰が望む?
ネガティブを感じたその瞬間、自分がネガティブによって楽しさを求めていたり、何かを手に入れるためにネガティブになっていることに気づくこと。
そうすれば、自我を直接感じることができる。
その瞬間、自分自身が自我から気づきへとシフトしているよ。
自我が縮みあがり、気づきが成長する。

ネガティブの真っただ中で「今自分は自分自身で苦悩を作り上げている」と気づくことができたらね、それは十分な気づきだよ。
いつもワンパターンな自我やその反応から自由になるには十分な気づき。
気づきは無限の可能性をもってやってくる。
ネガティブなんかよりずっと知的なものが状況を対処してくれる。
ネガティブなんかに大した力はないことに気づけば、自分はしょぼいという感覚をすぐに捨てることができるよ。

過去の経験・記憶をもとに人間関係を作ってしまうと、その分「今」にいる必要性が強まるよ。
過去を持ち歩けば持ち歩くほど、何度も過去を捨て去る作業が必要になるからね。

自我は、記憶や経験をもとにイメージを作り上げる。
自分自身に対してのイメージもね。
ホントの人間関係というものは、そんな自我から自由なものなんだよ。
ホントの人間関係では、エネルギーは外側へ流れている。
それはオープンなもの。
他人に対して何も望まないエネルギーの流れ。
このエネルギーの流れが「今」というもの。
純粋な人間関係には欠かせないもの。
このエネルギーが自分に戻ってくるようなら、それは自我がしてることだね。
見返りを求めてる。
このことは、人間関係だけでなく、状況との関りにおいても同じことが言えるよ。

例えば自分の子供の世話をしているとき。
見たり聞いたり触れるとき、静寂さ・完全な「今」を意識してみて。
その瞬間がその瞬間であるということ以外なにも望まずに「今」を意識してみて。
すると、自分に「在る」という空間を作ることができるよ。
そのとき、あなたはお父さんまたはお母さんではなくなってる。
あなたは意識であり、静寂さであり、聞いたり見たり触れたり話している「今」になってる。
あなたは「していること」の向こう側にある「在る」になれてるよ。

「在る」を無視していたら「していること」はうまくいかなくなるからね。

たいていの人は外側の「形あるもの」ばかり見て、内側の要素「形のないもの」には気づけない。
自分自身の要素となるものに気づけず、肉体的・精神的な「形あるもの」を自分自身としてしまう。
でもね、知覚や意識を研ぎ澄まし、一旦「今」とか静寂さのような感覚を経験するとね、命の神聖さを感じられるようになるよ。
命の神聖さというのは全ての生き物の意識の中にあるもの。
命から生まれたあらゆるもの。
「今」にあると、命は自分自身だったんだと気づくよ。
すると全てのものが愛おしくなるんだ。

仕事であれ何であれ、人と会うときには意識を全部相手に向けてみな。
ヒトではなく、「今」という意識、気づきとして相手と向かい合えてるよ。
仕事とかおしゃべりとか、そんな他人との交流は第2の目的。
気づきの中にあると、やりとりのホントの目的が浮上するよ。
気づきの空間は、物質的なこととか思考による産物なんかより、もっと重要なものをもたらす。
あなたは、この世界に「形あるもの」より重要なものをもたらすために存在しているんだ。
実生活ですべきことを無視しろと言ってるわけではないよ。
「在る」の中にいれたら、「していること」の意義が高まる。
普段していることは、もっとシンプルになり、説得力のあるものになる。
普段していることはエネルギーが分散している。
気づきがあるとエネルギーに創造性が生まれる。
それが新しい地球の人間関係において一番重要な要素。
これが人類共通の目的。

不平不満というものは自分で作り出しているもの。
「自分は間違ってない」という感覚を強める作用しかない。
そうすることで自我の居場所を作ってあげることができるからね。
このことに気づけば自然と許せるようになるよ。
「ただ単に物事を見る」ということは「許す」ということ。
キリスト教の「敵を許しなさい」というのは、「許せない」という自我の性質を解きほぐせという教えだよ。

この地球上で唯一の加害者となるもの。
それは人間の無意識だよ。
この無意識に光が当たればホントの許しが始まる。
この許しがあって、自分の自己犠牲感がなくなる。
そして、ホントの自分の力が現れる。
「今」という力がね。
「今」という光。
いつまでも闇に文句を言っている時代は終わったよ。

「今」というのは内なる宇宙のこと。
「今」にあるとき、自分に聞いてみな。
「私は今この状況に対して何をなすべきなのでしょう?」ってね。
その質問の必要性はなくなってるから。
あなたは、静寂であり、意識であり、「在る」ものに開かれている。
状況に「宇宙」という新しい次元をもたらすことができるんだよ。
すると、ホントに見ることや聞くことができるようになる。
状況と一つになることができている。
状況に反抗しなければ、状況と一つとなり、問題は自然と解決している。
実は、問題を解決しているのは、見たり聞いたりしている自分じゃないんだけどね。
静寂という意識そのものが、それをしてるんだよ。
で、行動が必要な時が来れば、あなたはそれを「する」ことができる。
というか、あなたを通してホントの行動が現れる。
ホントの行動とは全体性に適った行動のこと。
ホントの行動が終わった後には依然として静寂な意識、宇宙が残っている。
そこには、「よっしゃー!」とガッツポーズをする者はいない。
全体性の中では「見て!私がこれをやったのよ」と言う人はいないんだよ。

「今」はあなたの「している」ことに流れ込み、あなたの「している」ことに変容をもたらす。
「している」ことになりきっているとき「今」になれている。
お金とか名声とか成功するといった結果を求めていないとき「今」になれている。
そのとき、「している」ことの中に質と力が生まれる。
「している」ことが楽しくて生きがいを感じることができている。
当然だけど、「今」と仲良くできなければ「今」になることはできないからね。
ネガティブがあると「今」と仲良くできないよ。
うまく「行動する」には、ネガティブを持ち運ばないのが基本ということを忘れないで。

第8章:意識。意識とはもとからあったもの。

「在る」を楽しむとは、「意識」を楽しむということ。

意識とは、最初から意識として存在しているもの。
定義できないし、永久にあるもの。
でもね、この宇宙は徐々に意識となりつつある。
意識には時間が存在しないから進化するということもない。
生まれもしないし死にもしない。
意識がこの宇宙の中で「形あるもの」として現れるとき、時間や進化が存在しているように見えるかもしれない。
人間の頭ではとらえきれるものではないからね。
でもその宇宙の不思議さを自分自身の中に垣間見ることができる。
自分自身がその意識となって宇宙に参加することができるんだよ。

意識は知的なもの。
全ての「形あるもの」に先立つもの。
意識はそれ自身を表現するために、「形あるもの」をずーっと創り出してきたんだ。

純粋な意識のレベルは「形あるもの」とは別の次元と思いがちだけど、そうじゃないよ。
登場人物である「形あるもの」は、「形のないもの」という舞台の上にあるもの。
「形のないもの」が、宇宙意識を通して「形あるもの」に流れ込む。
それをするのは誰?
「意識となった人類という形」を通して。

意識は、具現化された次元、つまり「形あるもの」に生まれ変わっていく。
それって、夢の中のような状態、つまりこの世に生まれ出るということなんだけどね。
知性はそのままあるにはあるけど、意識が無意識になっている状態。
「形あるもの」の次元では、意識は失われてしまう。
意識が「形あるもの」となってしまう。
神様が神様であった意識を忘れて、肉体を持ってこの世に生まれてきた感じ。

僕たちの地球では、宇宙の眠りから醒めるファイナルステージに来ているよ。
意識と「形あるもの」を同化させてしまった自我から目覚めるファイナルステージ。
これは意識の進化のためには必要なステップなんだ。

人類の進化の次のステップは、意識になることを選択すること。
誰が選択するのか?
それはあなた。
人任せにしないでね。
選択とは責任を持つこと、「今」にあることだから。
では、あなたとは誰か?
意識となったあなたのこと。

人間の脳は高度に物質化された「形あるもの」と言えるね。
その脳を通して、意識がこの次元にやって来れるんだ。
神経細胞はニューロンとも呼ばれてるね。
ざっと1兆個はあるだろうか。
銀河にある星の数とも同じと言われているほど。
人間の脳は一つの銀河とも言えるね。
でね、意識は人間の脳が作っているものではないんだ。
意識が人間の脳を作っている。
意識が意識を表現するために作られた地球上で最も複雑な臓器。
脳がダメージを受けたとき、あなたが意識を持てなくなるんじゃないんだよ。
そうじゃなくて、意識が脳を通してこの次元にやって来れなくなってしまったということなんだ。
あなたは意識を失うことはできない。
だってあなたが意識そのものだからね。
僕たちは持っているものしか無くすことができない。
自分自身であるものを無くすことはできないんだよ。

意識がなんなのか理解できなくても、意識そのものになることはできるよ。
どこであっても、どんな状況でもそれを感じることができる。
「今ここ」にそれを感じることができる。
「今」という内なる宇宙の中で、この文章は知覚され思考となっていく。
意識とは、無限に横たわっている自分自身のこと。
読んだり考えたりする言葉は、舞台の上に出てくる登場人物。
自分自身とは舞台そのもの。
経験・思考・感覚は全て自分自身という舞台の上で展開されている。

スピリチュアルな気づきとは、「知覚・経験・思考し感じているのは自分ではない」ということを見抜くことだよ。
それらの中に自分は存在しない。
それらは絶え間なく変化していくものだからね。
ブッダはそのことを見抜いた最初の人だろうね。
アナタ(無我)は彼の教えの中心となっている。
イエス様も「自我という幻想を否定し元に戻りなさい」と言ってるよ。

常にあるのは意識の光。
その光の中で、知覚・経験・思考・感覚はやってきては去っていく。
意識こそ「在る」もの。
意識こそホントの自分。
そのことに気づいたとき、この世で起こることは全て相対的なものでしかなくなる。
物事の深刻さ・重たさが無くなる。

「私はホントの私である『在る』を感じることができているでしょうか?」
「今この瞬間に私は私で『在る』私、その私を感じることができているでしょうか?」
「私は私自身が意識であるということを感じることができているでしょうか?」
「起きている物事の中から自分を消すことができているでしょうか?」
「自分の中から思考を消すことはできているでしょうか?」

「形あるもの」はあなたに「これが自分だ」というアイデンティティーをもたらす。
その「形あるもの」が崩れると、自我も崩れていく。
自我は「形あるもの」から形成されているから。
「これが自分だ」というアイデンティティーがなくなったら、じゃああなたは何なんだろうね?
自分の周りにある「形あるもの」が消失するとね、自分が「在る」という感覚、「私は在る」という感覚が「形あるもの」から解き放たれるよ。
物質と言う檻の中から魂が解放される。
もともと自分は「形のないもの」「今という全体」「形あるものに先立つもの」「全アイデンティティー」だったということに気づく。
意識が「これが自分だ」と言ってるんじゃなくて、自分自身が意識そのものだったんだと気づく。
それが神との調和だよ。
「私は神の意志を知りたい。他の事はこまごまとしたこと。」とアインシュタインは言いました。
「神の意志」って何だと思う?
意識のことだよ。
「神の意志を知る」ってどういう意味だと思う?
眠りから覚めるってことだよ。
「こまごまとしたこと」は?
あなたの外側の目的や外側で起こるすべてのことだよ。

静寂さから神様は語り掛けてくれる。
静寂さ以外からは神様の言ってることはうまく伝わらない。
静寂という意識になるときはいつでも、あなたは「形のないもの」や時間の存在しない次元とつながっているよ。
それは思考や自我の届かない次元。
静寂さは、世界中の自然の中にあるかもしれないし、早朝の自分の部屋の中にあるかもしれないし、音と音の間にある沈黙の中にあるかもしれない。
静寂さには形がないから、思考を通してではとらえることができないんだ。
思考は「形あるもの」だからね。
静寂さに気づくとは、静寂さの中に入ること。
静寂さの中に入るとは、考えることなく意識になるということ。
静寂になれたとき、それ以上深い自分にはなれない。
静寂になるまでは、体と心を持った仮の人だったけどね。
静寂になれると、「形あるもの」は崩れ去る。
静寂さは、「仮の存在を超えた存在」「条件付けされない意識」「形のないもの」「永遠」のこと。

第9章:体の内側へ。体の内側は形のない源。

分かってると思うけど、体=自分じゃないよね?

この章では、体の内側に意識を向けてみるよ。

いつかは死んでしまう体を自分と同一視するとね、いつかは苦悩に行きつく。
と言っても、肉体を無視しろという意味ではないからね。
健康なら健康を楽しむべきだよ。
健康や美を維持することも楽しめるね。
でも、健康の衰えを感じ始めたら…?
もし自分を肉体と同一視してなければ、そんな苦悩は感じる必要がないよね。
実際は逆でね、体が衰えてきたほうが意識の光は輝きやすくなる。

「自分は意識。肉体とは関係ない」という感覚になろうとするとね、自我はそうはさせまいと頭をもたげるよ。
「形あるもの」と「形のないもの」をごっちゃにさせる。
意識は確かに「形のないもの」だけど、「自分は意識」という思考は「形あるもの」だからね。
これが「自分とは~だ」と思考しているときの実情。
「在る」という感覚を忘れさせてしまう。

「自分はこういう姿かたち」という定義づけは自我の得意分野。
でもその分、簡単にこの自我の作戦を破ることができるんだけどね。
自分に「自分=体じゃないんだから」と言い聞かせるわけではないよ。
そうじゃなくて、体の内側へ意識を向けてみる。
自分の体がどんな見た目であっても、体の内側には激しく息づいたエネルギーの場があるんだよ。

2,3回意識して呼吸をしてみよう。
体全体にエネルギーが巡るのを感じると思うよ。
自分の体を内側から感じること。
体のどこか一部分から始めてみてもいいよ。
手、腕、足。
おなか、胸、首、頭。
唇はどう?
命を感じることはできたかい?
また、体全体で感じてみよう。
目を閉じてやってみてもいいね。
体のエネルギーの流れを感じたら目を開けてみよう。
周囲を見ながら体のエネルギーを感じてみよう。
そのうち、一々目を閉じる必要はなくなってるよ。
この文章を読んでるときだって感じることができてるようになる。

体の内側ってね、臓器とかでスペースがないように思えるけどね、空間なんだよ。
体の内側は、肉体じゃないんだ。
体の内側には、肉体に生命を吹き込んでいる命がある。
命は、体を創り出し維持している知性。
命は身体の中で瞬時にたくさんの作業を進めることができる。
命は、人間の理解力では一部分しかとらえられない。
そのことに気づくとね、自分は命そのものだったんだと分かるよ。
科学者がずっと探してきたけど見つけられない命。
命が命の中で命を探してるようなもんだね。
海の中で水を探す、というたとえもあるね。

体の内側の気づきがうまくいかないようなら、ちょっと目を閉じてみてください。
両手の内側に意識を向けてください。
「何も感じないよ」と思考は言うかもね。
「もっと楽しいことを考えさせてよ」と言うかもしれない。
思考するんじゃなくて、両手に直接意識を向けてみて。
そうすることで、両手の中にある微かな命を感じることができるよ。
そこにあるから。
命に気付けるからちょっとやってみて。
最初にチクチクするような感覚があるかもしれない。
それがエネルギー、生きてる感覚になっていく。
両手に意識を向け続けると、その感覚は強くなっていく。
もう目を閉じてる必要はなくなる。
「内なる両手」を感じながらこの文章を読めている。
じゃあ足にも意識を向けてみよう。
手にも足にもエネルギーを感じ始めるよ。
腕、胸、おなかと意識を向ける部分を増やしてみよう。
体の内側のエネルギーは、命の感覚となって外へ流れていくよ。

僕が「体の内側」と表現したものは、「形あるもの」と「形のないもの」とをつなぐエネルギーのこと。
体そのもののことじゃないからね。
なるべくこのエネルギーを感じる習慣を作っていって。
しばらくすれば、目を閉じなくてもすぐに感じれるようになるから。
たとえば、こんなふうに習慣づけてみて。
誰かがしゃべってるのを聞いているときに、体の内側のエネルギーを感じることができているか確かめてみるとか。
体の内側を感じてるときって、体からも思考からも自由になれている。
「形あるもの」から解放されている。
形ある世界から形のない世界へシフトしている。
形のない世界とは「在る」のことだからね。
「在る」とはあるがままのあなたのこと。
体の気づきは「今」に引き留めてくれる重りにもなるし、自我の牢獄からの出口にもなる。
免疫や自然治癒力も高めてくれるよ。

毎日できるだけ、体の内側の気づきをやってみて。
何かを待っているとき、誰かとしゃべっているとき、空・木・花・両親・子供・パートナーを見るとき。
体の中に空間を作ってみて。
同時にその空間にあるものを感じてみて。
それが命だから。
そのときに残る意識が「形のないもの」だよ。
そして、それ以外の意識は外側の「形あるもの」に向かって行き、有効に使われるようになる。
こんな感じで体の中に「住む」ことができたら、「今」に居やすくなるよ。
思考や感情、状況にも左右されづらくなる。

体の内側へ深く潜っていくとね、「形あるもの」であるあなたの体は、「形のない」あるがままの体となっている。
内なる宇宙への入り口となる。
内なる宇宙は形は無いけど強烈な命。
その空っぽの空間は命で満たされている。
命は形のない源。
全ての「形あるもの」は、「形のない」源によってできている。
その源は、伝統的な言い方では「神」と呼ばれているよ。

第10章:ワンネスってね…命そのもののことです。

僕たちは表面的にしか物事を見ることができないけど、物事は全てつながっている。
そして、物事は全部命の源から生まれている。
石でも小さな花でも鳥でも。
それらは、神へと戻る帰り道を教えてくれる。
源へ戻る道。
自分へと戻る道。
言葉や意味を持たせずに何かを見たり持ったりするとき、自分の中に畏敬の念、不思議な感覚が湧き起こるよ。
その存在そのものが僕たちに静かに語り掛けてくる。
僕たちは僕たちの存在そのものをもって、それに応えてる。

なんで自我はあなたを演じるんだろうね?
自我はまだ検証されてない仮説を立証させるために思考を無意識に駆使させる。
どんな仮説かというと、「私は不十分である」という仮説。
この仮説に続いて自我は無意識に思考する。
「自分を充たすために、自分を高めるために、自分の役割を果たし、必要なものを手に入れるのだ」とね。
この仮説は根本的に間違いだから立証されようがない。
なので、自我は死ぬまであなたを演じ続ける。
この仮説はなぜ根本的に違うのか。
だって、あなたは命そのものだから。
命そのものなんだから不十分になるはずがない。
「形あるもの」のレベルでは、「私はあの人より劣ってる」、「私はあの人より優れている」、といった比較の世界。
あるがままのレベルでは、そんな比較は存在できない。
あなたは、誰にも劣ってないし優れてもいない。
みんな一つの命だからね。
ホントの自己評価とホントの謙虚さが現れる。
自我のレベルでは、自己評価と謙虚さは逆の関係。
自己評価が高いと傲慢になりやすい。
本来は自己評価と謙虚は同じもの。

命である「在る」から分離してしまったら「私」には何ができると思う?
まったくなにもできないよ。
だから「私の」人生というものはないし、「私が」命を持っているわけでもない。
あなたが命。
あなたと命は同じもの。
それ以外のものにはなれない。
どうやったら命を失くすことができるんだい?
最初から持ってないものを失くすことはできないんだよ。
命である私から何かを奪うことはできる?
不可能だね。

真実はあなたから切り離すことはできないよ。
そう、真実はあなた自身だから。
まさに「在る」あなたが真実。
そのことをイエスは伝えたかったんだよ。
「私は道であり真理であり命である」ってね。
正確に理解できてれば、この言葉は真実をそのまま示していることが分かる。
最も深いところにある自分、あるがままの人類、生きとし生けるものについてイエスは伝えようとしたんだ。
イエスはあなたは命だと教えてくれているんだ。
そのことを内なるキリストとも言うね。
仏教では仏性と言ったりする。
ヒンドゥー教ではアーリマン。
どれも神が内在する表現。
自分自身の中でその次元に触れるとね、(まぁそれって本来の自分に触れることだから取り立てて不思議なことじゃないんだけど…)あなたのすることが命全体に反映される。
あなたの奥深くに感じられるようになった命そのものにね。
これが愛。

あなたの中にもともとある良い性質、それが富の本質。

富はあなたの外にはないよ。
富はあなたの一部分だから。
でもまずは外側に富を見つけることから始めてみようか。
あなたの周囲に目を向けてみよう。
命で満たされている。
日差しの暖かさを感じる。
花屋さんの前に展示されている沢山の花たち。
フルーツをかじったときのみずみずしさ。
空から降ってくる雨に濡れているとき。
どんなところにも命を感じることができる。
そんな命が、あなたの中に眠っている富を目覚めさせてくれる。
そしたらそれを外に出してあげればいいだけだよ。
通りすがる人に微笑むとき、エネルギーは外へ流れ出している。
「与える人」になれている。
「私は何を与えることができるだろうか?」
「私には何をしてあげることができるだろうか?」
と自問するといいよ。
富を感じさせるものを持つ必要はないんだ。
いつも富を感じていれば、物質的な富も自分のもとにやってくる。
富はすでに富んでいる人のもとにやってくるものだからね。

苗木は何も求めない。
どうしてかと言えば、苗木は全体の中の一点。
その一点を通して全体が現れているだけだから。
「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
こういう風に言うこともできるかな。
「全体である命は、苗木に木になってほしいと思っている。でも、苗木は命から分離していないから命に何も望まない。」ってね。
だから苗木は心配もしないしストレスも抱えない。
木になれなくても、安らかに枯れるだけ。
これは命の中にあるからこそ持てる感覚。
無くならないことが分かってるから。
「在る」の感覚。
形のない永遠の命の感覚。

なにか悲劇的な体験をしたとき、それに抵抗することもできるし、そこから何かを生み出すこともできる。
すごく苦しんだり怒ったり恨んだりして抵抗を続ける人もいれば、その経験から何かを学び愛に生きるようになる人もいる。
抵抗は収縮した感覚。
自我の壁がとても厚くなっている。
閉鎖空間。
外側に向かうには状況との和解が必要。
すると命とつながれる。

何かを生み出しているときって意識に新しい次元が訪れている。
そのときの行動はやりやすいし必要な行動。
全体に適った行動だよ。
宇宙に応援してもらえる。
状況や人が助けてくれるようになる。
シンクロニシティが始まっている。
抵抗しているときはじっとしてるほうがいいよ。
身動き取れなくなってるから。
抵抗している対象がどうでもよくなるまで、静寂の中でゆっくり休んでね。
神の中で。

僕が自分とホントの自分との区別ができるようになったとき、制限の次元が終わりを告げて、永遠の神の世界が僕を通じてやってきた。
そして、僕を導いてくれている。
「形あるもの」から自由になれたんだ。
どんな思考も自由にはしてくれないよ。
「私は『形あるもの』ではない」と考えてみたところで何の助けにもならない。
それよりもこう問うてみること。
「いまこの瞬間、私は『今』を感じることができているか。内なる宇宙である『今』を。」
もっと言えば、
「わたしという『今』を感じることができているか。『私は在る』という『今』を。」

あなたは気づけてるかい?
今この瞬間起きていることに。
そして『今』自身に。
全てが起きている『今』に。
時間が存在しない『今』に。
宇宙意識である『今』に。
命である『今』に。

もしホントに平和を望めているのなら、平和は必ずやってくる。
なによりも平和が大事と思えたらね。
自分自身がちっぽけなものではなく、スピリチュアルな存在だと気づけたらね。
そしたら、人や状況に抵抗してない意識となれているから。
誰かや状況が挑んできたと感じたら、直ちにそれを受け入れちゃう。
すると一つに戻れるよ。
一つとなった意識が対応してくれる。
あなたはあなたが考えているようなちっちゃな人間ではないからね。
意識そのものだから。
意識には力があって効率的。
意識はヒトや状況から敵を作らないからね。

状況や「今この瞬間」と一つになるというのは、「自分には変化や行動を起こす力がない」ってことではないからね。
運命を受け入れろってのとは違う。
「今」にあると、行動の動機が深いところからやってくるんだ。
「今」にいないときの動機は、自我の恐れや欲からくるもの。
「今」と仲良くできたとき意識は開かれ、全体とも仲良くできるようになる。
「今」とは全体とあなたを結び付けてくれるもの。
全体とは命そのもののこと。
そして、あなたを通して変化や行動が生まれる。

命は、あなたの意識の進化にとって最善な経験を与えてくれる。
自分の意識の進化に必要な経験ってどんな経験かって?
今この瞬間に体験している経験のことだよ。

どうやって「今」になるのか?
「今」にくつろぐと『今」になれる。
「今この瞬間」とは、人生ゲームが展開されている場のことだよ。
「今この瞬間」でしか行われていない。
「今この瞬間」にくつろげると、「今」を見ることができるようになるよ。
自分が選んでたと思ってたけど、自分を通して命がやっていたんだ。

人生の秘密を解き明かす言葉を紹介するね。
成功と幸福の奥義となる言葉をね。
それは…「全ては命そのもの」!
全ての命と一つになるには、「今」と一つになること。
すると、自分が命を生きていたんじゃなくて、命が自分を生きていたことに気づく。
命がダンサーで、ダンスをするのはあなた。

神は全体である一つの命。
愛には2元性があるよ。
愛するものと愛されるもの。
主体と客体。
この2元の世界の中で、愛は全体性を認識させてくれるもの。
愛は、2元の世界に生まれてきた神の形。
愛は世界を「形のないもの」に近づけてくれる。
愛は世界の重さを軽くしてくれる。
あなたを神の性質に近づけてくれる。
愛自体が意識の光。