不登校のみなさん、「勉強がしたくても学校へ行けないから…」は意味不明な発言です。
「勉強するためには学校へ行かなければならない」は単なる思い込みです。
学校へ行かなくても勉強できます。
「学校へ行ってないから勉強できない」は単なる言い訳です(笑)
なんぞなんじ勉強せざる?
例文を覚えて漢文マスター!
再読文字、「盍」
なんぞ~ざる、と読みます。
どうして~しないのか?という意味ですね。
子曰はく「盍(なん)ぞ各(おのおの)爾(なんじ)の志を言はざる」
子曰「盍三各言二爾志一」
「どうしておまえたちは自分の志を言わないのかね?」と孔子が弟子の顔淵と子路に言ったセリフですね。
すると、子路は答えました。
「願はくは車馬衣装、朋友と共にし、之を破るも恨み無けん」
「車や馬や着物や毛皮の外套を友人と共に使用し、それが壊れても恨まないようになりたいものです」とのこと。
友達思いですね、子路さんは。
そんな子路さんと友達になりたい!
でも、子路さんに甘えちゃいそうですね。
子路さんは、友達から利用されそうです。
子路さんは社会主義思想に近いですね。
みんな仲良く、平等に食料や物を国で分かち合って…そしたらみんな働かなくなっちゃったみたいな…
もう一人の弟子、顔淵はこう答えました。
「願はくは善に誇るなく、労を施すなからん」
善行を誇ることがなく、苦労なことを人に押し付けることがないようになりたい、とのこと。
なんか普通ですね。
そして、何気に自分は善いやつだアピールしてますね。
善行を誇るのも誇らないようにするのも、自分が善行をしていると思っていないとできません。
さて、気になる孔子の理想は?
「老者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少者は之を懐けん」
老人の心を安らかにさせ、友人から信頼され、若者から親しまれるようになりたいものだ。
ということですが、孔子は誰からもモテたいスーパースターを目指してました。
仁や徳もいいですが、それを重んじると自分を苦しめます。
さらには周りの人も苦しめます。
仁や徳を重んじない人を許せなくなるからです。
では僕の理想像はというと…
貸したものこわされたって別によくね?
善行できなくても別によくね?
善行できても別にいいよね?
それでまあ老人の心が安らかになり、友人・若者がしたってくれるようになれば嬉しいことだ。
信頼が得られなかったならそれまでのこと。
友人若者はそのように評価しただけですから。
自分の人生がそれで終わるわけではありません。
もっと言うと、「あの人は私のことを評価してくれていない」と他人を評価しているのは自分自身であることに気づくことです。
なので、理想像ってあまり作るのよくないかもしれませんね。
そこに近づけたとしても、漸近線みたいに手が届きそうで届かない、コースターを走るハムスターになりかねません。
でも、それはそれで楽しいことなのかなと最近思います。
なぜなら…
勉強には果てがありませんが、やってて楽しいからです。
ハムスターも「うわっ何このコースター!めっちゃ楽しい!」と思って走り続けるのは素晴らしいことだと思います。
ただ、楽しくても埋没しすぎるのはやはりよくありません。
それは耽溺ですね。
今を見失わず楽しむことです。
楽しく自然に人生を生きることが理想ですね。
無為自然。
僕には儒教よりも道教のほうがあっているかもしれません。