人生は秩序と混沌の間を行ったり来たりして展開されています。
今この時点でこの重要な2極の存在に気づくことが重要です。
この2極がないと、世界は存在できません。
無秩序を別の言葉で言い換えますと、逆境のことです。
逆境が続く状態が混沌と言えます。
もちろん、物事がうまく進むように、生活の中に秩序や調和を持たせて生きていきたいと誰もが思います。
そうは思っているのですが、無秩序なことが起きて私たちの思いを台無しにされてしまうことがほとんどです。
そして、そうなったことに対し私たちは立腹し、怒り、失望し、悲しみます。
無秩序は実に様々な形で訪れます。
無秩序がやってきますと、私たちの人生にとって、とても大きな試練のようなものを作り出します。
そして、それは、「これは何かが絶対おかしい、なんでこんなことが起こるんだ、おそらく神は私を見放したのだろう」などと言った、わたしたちの奥底に眠る強い価値観・信念を呼び覚まします。
ここで私たちは再び思い出す必要があります。
この無秩序や逆境というものが、高次な秩序につながる不可欠な要素であるということを。
高次な見方をしますと、秩序や無秩序といったものは私たちの理解を超えた存在であり、命を進化させるためには絶対必要なものであります。
このことに多くの人たちが気付いています。
無秩序や混沌の日々に耐えたその直後、その結果として、自分自身の深いところにある感覚、深い存在を感じはじめた人が多くいます。
中世キリスト教では、スピリチュアルの目覚めの前に先立って起こる、このような精神的な動きのことを、闇の中の魂と呼んでいました。
無秩序、破壊の噴出があり、やがて、そこからの解放、深い気づきが生まれます。
それはとても痛みを伴います。
でも、おかしなもので、痛みがあるからこそ気づけるようになります。
コンフォタブルゾーンにいるままだと悟りは訪れないわけですね。
逆境のないところで存在の深い部分を感じれたとしても、それは部分的な体験だと思われます。
進化的なシフト、進化的な飛躍が起こるところでは、たいていその人個人の苦難の体験が存在しています。
私たちの人生は秩序と無秩序の間を行ったり来たりしています。
私たちはその両方であり、両方とも必要なものです。
苦難のあとに必ず悟りが訪れるわけではありませんが、その可能性は常にあります。
苦難はチャンスですが、たいてい私たちはそのチャンスを逃してしまいます。
そんなわけで、私たちは今ここにいます。
私たちの人生の目的は一緒です。
今ここで何が起ころうと、今この瞬間にフォーカスします。
今この瞬間に感じている苦難は、集団意識のレベルになると違ったものとなるかもしれません。
苦難はチャンスです。
苦難の時は、気づきのときでもあるからです。
この二つは常に一緒にいます。
人生勉強するために苦労をする必要があるようなものです。
チャンスではあるけど悟りが訪れる保障はありません。
でも、そこで悟りが訪れなくても大丈夫です。
一見、悲劇・不幸に見えることでも実際は完璧な状態で展開しているからです。
気づきというものは高次のレベルから与えられるものです。
それ以外の方法で与えられることはありません。
それが人類の目覚めであり、地球の目覚めです。